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早分かりストーリー4:リー・ブリロー死去
フィールグッズ再始動とウィルコ・ジョンソン・バンド結成
しかしドクター・フィールグッドへのラヴ・コールは多く、
しばし活動休止の後、
リー・ブリローはバンド・メンバーを一新。
ギターにゴードン・ラッセル、ベースにフィル・ミッチェル、
ドラムにケヴィン・モリスと3ピースの基本形そのままに
ドクター・フィールグッドを再始動。
ライヴ活動を開始し、
1984年にアルバム『 DOCTORS ORDER 』を発売。
マイク・ヴァーノンをプロデューサーに迎えて製作されたが、
正直、内容はイマひとつだった。
一方のウィルコ・ジョンソンといえば、
1983年にラッセル・ストラッター、アレックス・ビーンズ、
そして元エディー&ホットロッズのハーピストだったルー・ルイスとの双頭バンドで活動。
ドラマーがアランからルー・ルイス・リフォーマーのバズ・バーウェルにかわって
1984年にカバー曲ばかりを収録した『 PULL THE COVER 』を発売するが波にのれず。
順調な活動とはいえない状態が続いていた。
ドラマーにサルヴァトーレ・ラムンドが加入したものの、
ベースだったラッセル・ストラッターがエディー&ザ・ホット・ロッズに参加することとなり、
その頃、ウィルコ・ジョンソンは引退をも考えていたらしい。
しかし、残りのライヴを消化するためにベースを依頼したのが、
ブロックヘッズで出会ったノーマン・ワット・ロイ。
これが転機となった。
消化試合だったはずのウィルコ、サルヴァトーレ、そしてノーマンのトリオによる
ウィルコ・ジョンソン・バンドのファンキーなサウンドが大好評。
バンドはまたまたハイペースにライヴをこなすこととなった。
その頃のライヴは1986年に発売された『 WATCH OUT! 』というライヴ盤に残されるが、
未CD化なのが残念。
しかし一部が『 CALL IT WHAT YOU WANT 』という編集盤で聴く事ができる。
1988年にはトリオによる初のスタジオ盤『 BARBED WIRE BLUES 』も発売。
ウィルコ・ジョンソン・バンドのちょっとクセのある個性的でファンキーなサウンドが味わえる。
好調フィールグッズ&ウィルコ・ジョンソン・バンド
ドクター・フィールグッドといえば、
1985年に発売されたR&Bカバー・アルバム『 MAD MAN BLUES 』で、
なんとか原点へと持ち直そうとする。
しかしリー・ブリロー自身が資金援助したスティッフ・レーベルから発売された
1986年のアルバム『 BRILLEAUX 』、翌年の『 CLASSIC 』は、聴くのもツライほどの内容で
アルバムはコンスタントに発売されはするもののサウンドの方向性に迷いがある。
さらに『 CLASSIC 』発売後、なんとスティッフが閉鎖。
それでもクリス・フェンウィックを中心に自身のレーベル、グランド・レコーズを設立する。
また、ゴードン・ラッセルの赤ん坊が急死してしまう等、
精神的な疲労からゴードン・ラッセルが脱退。
そんな波にのれない状態のドクター・フィールグッドを救ったのが、
新ギターリストのスティーヴ・ウォルインである。
スティーヴは確かな実力とその人柄で、
ビート・バンド、ドクター・フィールグッドを復活させてみせた。
リー・ブリローもなにか吹っ切れたのだろう。
ゴードン時代には、得意のライヴ盤を1枚も発表しなかったが、
1990年に『 LIVE IN LONDON 』なる久々のライヴ・アルバムを発売。
そこには、意識的に避けていたであろうウィルコ作品まで収録するなど、
完全リフレッシュな状態が感じられた。
そして1991年、ドクター・フィールグッドとウィルコ・ジョンソン・バンドの
夢のジョイント・ライヴが日本で実現。
両方のバンドが勢いを取り戻してきた超グッド・タイミングである。
おいら自身、この時の川崎クラブチッタでのライヴが
初めてのドクター・フィールグッド、ウィルコ・ジョンソンの初生体験でもあった。
もしやリー・ブリローとウィルコ・ジョンソンの共演もあるかも!?
と期待したファンはおいらを含めてほとんどだったハズだが、
同じ場所にいながらも二人は顔を合わすこともなかったらしい。
リー・ブリローとウィルコ・ジョンソン、
二人はそういう状態だった。
それでも好調時のドクター・フィールグッドとウィルコ・ジョンソン・バンド、
そのライヴはとてつもなく素晴らしいものであったのは言うまでもない。
おいらは見事に中毒患者にさせられてしまった。
リー・ブリローの死
以降もドクター・フィールグッドは順調に活動を続け、
1991年にはスタジオ作『 PRIMO 』、
1993年には『 THE FEELGOOD FACTOR 』とチームワークの良さが感じられる
なかなか腰の入った好アルバムも着々と発表。
またついには自身のパブ、ドクター・フィールグッド・ミュージック・バーを
地元キャンベイ・アイランドにオープンするなど、
またもや黄金時代の到来。
・・・と思いきや・・・
その自身のパブのオープニング・ライブの時、すでにリー・ブリローは喉頭癌におかされていて、
死の宣告がされていたという。
それでも、その死の直前の1994年1月24,25日の2日間、
ドクター・フィールグッド・ミュージック・バーのステージに立ち、
病を抱えながらライブを行った。
それはライブ・アルバム『 DOWN AT THE DOCTORS 』として発売される。
1994年4月7日、リー・ブリローこの世を去る。
まったくどこまでもパブでライヴな、いかした男だったのだ、リー・ブリローは・・・
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